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沿革
1962年06月 |
高槻市、島本町で在宅輪番制による内科・小児科の休日昼間帯の診療を開始。
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1971年04月 |
高槻市医師会館に休日診療所が設置され、従来の在宅輪番制から固定式となる。
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1971年08月 |
救急医療体制を速やかに整備し、救急医療活動の万全を期する目的で、高槻市医師会、大阪医科大学、高槻赤十字病院、並びに議会代表、各種住民団体代表に行政代表が加わり、救急医療対策協議会が発足する。
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1972年10月 |
救急医療対策協議会の答申の具体化をはかるため、医療機関代表、議会代表、行政代表で専門的に検討する救急医療対策会議が発足し、夜間休日応急診療所の開設を促す答申が出される。
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1973年08月 |
高槻島本夜間休日応急診療所が開設。診療科目は内科・小児科・外科。これにより、恒久的には「救急センター」を建設する条件が附された。
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1974年06月 |
財団法人「高槻島本救急医療センター」が発足し、高槻島本夜間休日応急診療所の運営を高槻市から委託される。
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1978年04月 |
高槻島本夜間休日応急診療所が、現在の場所に新築移転する。休日の昼間帯に歯科の診療が加わる。
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1980年04月 |
救命救急医療に関する諸問題について、学術的な立場から調査研究をおこない、救命救急医療のシステム化を目的として、高槻救命救急医療研究会が発足する。
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1984年10月 |
財団法人「高槻島本救急医療センター」は、財団法人「大阪府三島救急医療センター」に名称変更。
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1985年11月 |
財団法人「大阪府三島救急医療センター」に、重症および最重症者の治療を目的とした、三次の救急施設「大阪府三島救命救急センター」開設、高槻島本夜間休日応急診療所と併せて、全国でも例を見ない独立型救命救急センターとなる。
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1987年01月 |
大阪医科大学学生の臨床実習(救急医学)を始める。
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1997年03月 |
災害拠点病院に指定される。
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2002年10月 |
高槻市消防本部の共同事業として、救命救急センター医師同乗による特別救急隊試行運用開始。
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2003年04月 |
財団法人「大阪府三島救急医療センターひかり診療所」開設。
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2006年10月 |
特別救急隊、365日24時間、本格運用開始。
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2011年03月 |
日本医療機能評価機構
付加機能救急医療機能 同時認定
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歴代所長
初代所長(1985年~1993年)
名誉所長 田邊 治之

1927年京都府に生まれる。1953年大阪医科大学卒業後、同大学脳神経外科にて診療に従事し助教授に就任。この間、高槻島本救急医療対策会議委員を始めとし、医療問題委員を歴任、当センター設立に大きく貢献する。
1985年センター設立とともに初代所長に就任し、地域における救急医療の体制整備に取り組む。1993年に救急医療功労者厚生大臣表彰を受賞。1994年2月16日肝臓ガンにて病没される。約8年間の闘病であった。「救急医療は公平であり、その享有するところの利益は、万人同じでなければならない。」この言葉が当センターのわれわれに残された指針である。
ガンと闘いながら亡くなるその日まで、救命救急センターの医療維持に尽力される。
第2代所長(1993年~2001年)
名誉所長 冨士原 彰

1939年京都府福知山市に生まれる。1964年大阪医科大学卒業後、1965年大阪医科大学第1外科に入局。1990年より当センター副所長。初代所長田邊治之先生に師事し、主として、救急医療行政の裏表を学び、当センターの発展と維持に貢献した。1993年4月2代目所長に就任。医療センター長を兼務のまま2000年4月より大阪医科大学救急医学教室初代教授となり、救急医療部を立ち上げる。阪神淡路大震災の経験を踏まえ行政、医師会また大阪医科大学と協力して災害医療の啓発活動を積極的におこなう。2000年救急医療功労者厚生大臣表彰を受賞。2000年化学的根拠に基づく心肺蘇生法教育プログラムを一早く導入し、2004年に救急医療功労者消防庁長官表彰を受賞した。
2001年大阪医科大学救急医学教室教授退官後大阪府三島救急医療センター長として現在に至る。
救命センター20周年記念誌の(初心に立ち返る姿勢)書のように常に謙虚であり、また平明な視線で物事の、真を見抜き、日本画を趣味とする温厚な人柄は職員の皆から愛されている。
第3代所長(2001年~2007年)
名誉所長 森田 大

1946年奈良県に生まれる。1972年大阪医科大学卒業後、同大学第3内科(循環器)にて診療に従事する。1985年開設にともない当センターに入職後、初代田邊所長ならびに第2代冨士原所長を支え、現場にあっては臨床教育の必要性を説く。2001年所長に就任。全国で初めて内科系医師として救命救急センターの長となる。内科医の立場で救急疾病患者のQOL改善を図るため救命救急センターのあるべき姿を模索するなか、ヨーロッパへの学会出張等が契機となり、1996年より北摂地域で病院外心肺停止患者に対する病院前救護体制の検証評価のために、データ収集・予後調査(ウツタイン様式)を開始する。2005年、このウツタイン様式を用いた予後調査は、総務省消防庁の統一様式となり全国消防機関で導入された。救える命を救うために、「医療の空白地帯」である病院前救護体制の整備充実に力を注ぎ、高槻市消防本部主導による救急ステーション方式の医師同乗救急車(ドクターカー)システムを提唱し、全国で行政が運用するものとしては4番目の稼働を実現した。そのかたわら、市民への心肺蘇生法の啓発教育ならびに地域へのAED設置を推進し、厚生労働省委託研究班員として、約10年にわたり大阪府内にて『あなたの勇気が命を救う・AEDの使い方を知ろう』のキャンペーンを展開した。2006年救急医療功労者厚生労働大臣表彰。2007年大阪医科大学救急医学教室教授(兼)大阪府三島救急医療センター副センター長に就任。2009年救急医療功労者総務大臣表彰を受賞、現在に至る。
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